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No.226 古典時代は終わった

山頂に登る道は幾通りもある。道はいくつあってもよい。だが、山頂に行ける道がついているかが問題である。 なぜなら山頂の近くには、神話というそれまでとは違った、非合理の領域があるのである。どうしてもそこを通らねばならない。 しかも、そこは神話的物語の中にあるような説教的なものでなく、幾何学的世界であり、純粋きわまりない、統一された構図の世界である。 人はそこで「原始の意志」にぶつかる。そして人はその軽やかで、自由にして、輝かしい音楽性の中で、舞い歌い、至福に満たされるのである。 純粋なるその構図、その高貴と永遠の浄福を備えた崇高さ、造形芸術の完璧な表現、それにただただ恍惚とならざるを得ないのである。 自然の一切なる根底にあるその純粋な形相に触れて、そこに根源的形相「神話」を見つけるのである。それが今言った「白紙の舞」そのものである。

そんな意味で哲学においても、宗教、芸術、科学においても、いくら知識の道をかけ入っても、絶対の道は、幾何学構図の道であるという事に気付かないかぎり、 それらは下山せねばならないのである。かつてこの宇宙の根底にある、その純粋な形相、幾何学の世界がそこに待ちうけているという事を知った人は、 ヨハネ・ケプラーただ一人であった。

人は知識、知、心の世界をいくらうろついてもダメである。それと全然違う幾何学的な構図という、異質なものに入ってゆかねばならないのである。 その方法に一番近いのは音楽である。音楽にはリズムがある。リズムとは幾何学的構図である。宇宙の本性なる神話の持つリズム、幾何学的構図を探すのだ。 その構図、角度、線と合ったリズムがある。それが私がマーケットで歌いながら歩いた歌の中にある。

歌を歌う事、歌でも色々な歌がある。その根源的神話の持つリズムの歌を歌うのである。その歌を歌って、その構図の中へ、その角度の中へ溶け込むのである。 知識で悟ったり、心で山頂に登ってゆけるのではない。鳥は歌い、岩も大地も呼吸している。月も太陽も呼吸している。出力、入力という宇宙の慣性力を、音楽的に呼吸している。 宇宙の一切はすべて相互作用をしながら、生き、存在している。天上から白い一枚の紙が舞い降りてきた。軽い羽毛が風に吹かれて、飛んできた。 柔らかい幾何学的角度をもってやって来た。リズムだ。角度だ。線だ。柔らかさだ。そこに原始の意志、原始の対話を感じないだろうか。 神話はそれだ。そこに自己がある。

もしその歌が見つからなければ、教えてあげる。宇宙のリズムに合った歌を。そしてどのように舞うのか教えてあげる。それが出来れば、誰とでもハーイと笑顔で手を取りあえる。 人種、宗教、国家間の違いを超えて、社会の秩序、維持はここから始まる。




知で世界は治まるものではない
芸術的なやわらかいものでなければ
人も社会も治まらない
芸術は透明な幾何学的角度で出来上がっている
音楽もそうだ

天上から舞い降りてくる 白紙の舞いとなる
これが世界最高の芸術である
幾何学的構図の中で自我は消える

コンピューター的構造の到来は
古典期の終わりを告げている
知的宗教、知的哲学をはびこらしてはいけない

我々はあまりにも教養を積み込み過ぎて
無用の長物の重さの故に
社会という船を沈めようとしている
その危機一髪の所で 構図の世界が登場した