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No.192 時間は「夢」を意味する

「七夕さん」というのがありますね。星が一年に一度だけ出会う。これは神話的物語か、それとも神話の現れたものかということに焦点を当てると、 これは神話の現れたものなのです。何故かというと単なる神話的な物語にはお説教があるのです。ああしたらいかんぞ、こうしたらいいのだぞとか。 例えば自分たちの心の中に鬼がいる。その鬼をやっつけないといかんとかね。そういう物語の中に鬼が現れたり、西洋の物語には真っ黒い竜が現れるのです。 その黒い竜をやっつけるのです。それはどういうことかと言うと、自分の中にある黒い竜をやっつけたら幸福になるという、結局お説教ですね。 宗教経典の説教を絵や紙芝居でやったようなものです。

「七夕さん」の話にはお説教が入ってないでしょう。綺麗でしょう。その綺麗なものをズーッと分析して奥に入っていきますと、 ものすごく綺麗で、やわらかくて、人間がいつまでもどこまでもそれを追跡していける、奥に入っていける。もう吸い込まれるようにその奥へ、やわらかさの中にズーッと行ける。 そしてそういうものが一体何かということを考えると、言葉にかえたら「夢」のようなものですね。「夢」がある。

お説教だったら夢がない。神話の世界はそんな説教も何もない綺麗な世界で人間を喜ばす。本当の自分に立ち返らせるようなものがあるわけです。 これを私は神話には「夢」というものがあると取ったわけです。神話の現れには「夢」がある。単なる神話的な物語には説教がある。全然違うのです。 神話というものは「夢」がある。希望がある。ああこんな美しい世界をこしらえないといかんな。こんな美しい波動の世界が広がったら良くなるという「夢」がある。 単なる神話的な物語には神話と違うから説教ばかりある。それだけの違いがあります。 だからこの有の世界をとりまいている神話の中には「夢」があり、そしてそれが透明な線で出来上がっている。そこにはけがれが全然ないということが見つかります。 言葉を変えて言うなら、この有の世界、即ち時間も空間も未来も夢を内在していると言えます。

子供というのはそういう夢の世界におるわけです。大人は現実の世界におります。金を盗られたり、損をした、負けた、勝った、儲けた。現実の世界は荒々しいですね。 そんな荒々しい世界の中にいるから人間の心が荒れるばかりで安らぎがない。即ち夢があるようで夢がない。そんな世界に大人は住んでいるのです。 それでは一時の幸せしか得られません。幸せは感覚を超えた真実な世界にあるのです。それが神話の世界なのです。

子供の心は遊びの中に生きておりすべてと友達です。透明なる意識を持って今を生きています。大人は明日の幸せを追って生きています。今が空虚です。明日も未来も空虚の連続です。 子供は今を満たして安らかな眠りにつきます。永遠なる眠りの中で木や草や虫やボールやそんなものと語り合って生きています。神話そのものです。神話の世界には今の中に未来がある。 本当の世界には永遠と未来がある。未来というのは何なのかというと時間です。未来というのは時間なのです。時間ということは空間ということになります。広がり、空間というものも夢なのです。 未来というものは夢であり、時間というものも夢なのです。

もう一度言います。未来というものは夢であり、時間というものは夢であり空間というものは夢なんです。と同時にここにあるものは全部夢のかたまりなのです。嬉しいですね。 星もそうです、花もそうです、鳥もそうです、空気もそうです、太陽もそうです。何もかもあるもの一切が夢のかたまりなのです。嬉しいですね。一切が神話のかたまりなのです。 自分たちは夢の中に生きているのです。夢の中に生き、何もかも夢で満ちあふれているのです。これは神話を見つけたわけです。




■■ 瞑想学 ■■

古くから
形而上学と哲学という
二つの学問があった

しかし これだけでは不完全である
それに メディテイションという学問が
加わらねばならない

メディテイションとは静かに座って
考えをめぐらすばかりの事ではない

メディテイションとは哲学と反対で
考える事をやめるところからはじまる

考える世界より考えない世界に入ってゆく方が
はるかに深い世界をつかむことが出来る

考えず 静かに
眼を開いて 座るのである
自己を宇宙の中に入れ
宇宙を自己の中に入れるのである

そこに見えるものは 透明な線
透明な角度で織りなした
ピュアーで詩的 神話的な世界が
あらわれてくる

知識の世界ではない
体験の世界である

体験する学問が必要である

トランスパーソーナル
自己を越えた世界への学問
メディテイションは一つの学問である