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No.182 社会の芸術化/細かい、やさしい、ソフトな心

このあいだ、日本からジムに送られてきている通信学習の本を読みました。その本の中にこういうことが書いてありました。それを書いた先生は日本中の子供たちの書いた詩を集めて採点している人でした。その詩の中で一番いい作品をその人が選んでいました。その詩を紹介します。

日本では桜の花を非常に愛します。その子供がお母さんと一緒に桜を見に行きました。日本人はお弁当をもって桜を見に行きます。お母さんとその子供がお弁当を食べながら桜を見ていました。そうすると子供が食べているお弁当の中に桜の花びらが落ちてきました。 そしたらその子供が何といったと思いますか。「お母さん、この花びらをどうしたらいいの?」と言いました。ここが大事なポイントです。その子供はその桜の花を生きたもの、ただの物質ではなく、生きた大事なものとして扱っていたのです。そういう大切な桜の花びらがお弁当の上に落ちてきました。 普通だったら(いらないものが落ちてきた)と捨ててしまいます。しかしその子供にとってはその花びらが心のある宝石のようなものでした。捨てることも出来ませんでした。

そういう細かい、やわらかい、やさしい、宇宙の核心に通じる心というものが人間には必要です。これは非常に難しい例でしたが、分かったでしょうか?。人間にはそういうやさしい、ソフトな心というのがないと死んだのと同じです。だから物理学とか科学の世界ばかりで生きていたら人間の心が死んでしまうというのです。

この子供の詩を読まれたその先生がほろほろと涙を流したというのです。感動ですね。人間に感動がないと駄目です。死んだのも同然です。宇宙核心即ち感動のルツボに触れることが必要です。宇宙とはそのように生きてあるのです。

もう一つ違う例ですが、日本に俳句というのがあります。その俳句で一つ有名なのがあります。これは江戸期の女流俳人の加賀の千代という人の歌った俳句です。「朝顔に つるべ取られて もらい水」というものです。加賀の千代が朝起きました。そして井戸に行って水を汲もうとしました。水を汲んで顔を洗おうとしました。 ところがつるべ、水をくむバケツのようなものですね。その頃のつるべは竹の棒に木の桶がひっつけてありました。それに夜の間に朝顔の花のつるが大きくなって、そのつるべの棒に巻きついてしまっている。だからつるべで水を汲んだらそのつるべが切れてしまうわけです。 かわいそうだから、そのつるべで水を汲まないで、お隣の家で水をもらったというそういう俳句です。もう一度言います。「朝顔に つるべ取られて もらい水」

朝顔の花につるべを取られて、水をもらいに行った。そういうやさしいソフトな心の世界って人間に必要です。学問的に賢いことを知っている、知識の知恵というものとそれ以外に、やさしいソフトな心、生きたものを感じ大切にするというものがあります。学問的な知的な方ばかりが勝ったら人間は失敗してしまいます。 全てのものの中に心が大きくならないと人間に幸せはやってきません。その心を詩的とか、または神話的な心と言います。それが神様に近い心なのです。そしてそれをもっと深め、宇宙中に広げていきますと、宇宙の根源にいたることができます。ヴェーダーンタの教えというのはこういう教えです。 自分たちの心が高いところにいって、宇宙中に広がってしまわなければ至福が来ません。これを宇宙との合一、結合、自己実現といいます。

それには「させて頂く」というベーシックを持たないと、人は傲慢になり、低い意識に転落してしまいます。分かりましたか。「させて頂く」というのは自分たちをより良い方向にひっぱっていきます。これが自分たちの芸術です。人間が芸術作品にならなければなりません。立派な芸術作品を作ることが宗教です。

今までの宗教というと神様を拝むことが宗教だと思っていました。神様を拝むことも宗教の一つです。学校で先生が生徒にものを教えることも宗教です。音楽家が音楽を勉強するのも宗教です。画家が絵の研究をするのも宗教です。教員も音楽家も画家も政治家も警察官もみんな芸術的にならなければいけません。 その芸術家になるということには、一番最初に「させて頂く」というベーシックをもっているかいないかが問題となってきます。

今日の話はブリコジは宇宙は非平衡系で出来ていると言っています。私はその非平衡系と、もう一つ循環系は詩であるととらえます。この詩をとらえると、更にこの宇宙は踊りと遊戯に満ちていることが分かってきます。音楽家はそれを音楽ととらえます。画家のヴァン・ゴッホはそれを見て「もえる糸杉」を描きました。正にそれは音楽そのものです。




■■ 闇とは ■■

闇とは一体 何なのか
光の反対のものか
それとも それは
ただ単なる 光の蔭に
生ずるものなのか

光は 光波という物質で
あるならば
闇も闇という 波の物質で
なければなるまい
だが闇は 闇の波というべきものが
あるのでなく

闇は 光のささぬ前のもの
状態 現象なのか
さすれば 闇以前のものが
状態がなければ ならない

闇の前に 下部構造に
何があるのか
闇は 光の影なのか
それとも 光はさしても闇は
いぜんとして あるのか
あって 闇が光に
さえぎられているだけに
とどまるのか

物体に 光がさえぎられた
所だけが
闇が 光にさえぎられずに
闇が のこるのか

闇とは一体 物質か
エネルギーなのか
どんな エネルギーか
光波というものは
プラスとマイナスによって
なり立っているのか

闇も プラスとマイナスによって
なり立っているのか

プラスとマイナスは プラスから
生まれるのでは なかろうか
マイナスも プラスから生れるのでは
なかろうか
プラスから プラスとマイナスが
生れるのでは なかろうか

光も闇も プラスもマイナスも
どうして どこから
いつ つくられるのか
エネルギーと 時間と空間は
いつ どうして どこから
生れ つくられたのだろうか


1967.4.5