Home >> KALPATARU >> Prev >> Next >>

No.180 芸術的な人間 −続・させて頂く−

この世の中を良くしようと思えば、我々は歴史を勉強する必要があります。何故かというと、今自分たちの周囲にあるものを見習って、それが正しいのか、正しくないのか、それが分かりません。歴史を学ぶことによって、歴史の中に流れている文化を勉強します。 それを勉強することによって、これからの未来の文化というものをどういう風にしたらいいかが分かってきます。

文化には、宗教とか絵画とか彫刻とか文学とか、または機械技術文明とか経済とか政治とか、そういうものが含まれます。それらの文化をこしらえるのはやはり人間です。そして、その人間が足元を間違えると間違った文明社会を作ってしまいます。 文化、文化と言っても…、文明、文明と言っても、それがまともなものであるかどうかを確かめる必要があります。

では、人間がどういう文化をこしらえていったらいいかと言うと、文化も文明も芸術作品化されてこなければなりません。それぞれの文化を芸術的に仕立て上げなければならないのです。人間はいくら明るい方向にいっても、荒々しい明るさではいけません。 政治も同じで、戦争ばかりする政治はよくありません。政治の目的はやはり政治を芸術化させることにあります。

芸術化するということはどういうことかというと、それは明るくて、静かで、透明でなければなりません。宗教も同じです。文学もそうです。音楽もそうです。政治も宗教も文学も、また人間そのものの生活もそうです。 ところが我々の日常生活は芸術化しているかというと疑問です。その芸術というものを総合的に言いますと、本質的に上品で透明なものです。透明で、静かで礼拝そのものであって、自己を張り出すような厚かましいものではありません。 人間はどんなことにも成功出来るという可能性を強く持つ必要はありますが、それかといって厚かましい人間になったり、謙虚さを失ったりしますと、それは芸術作品化したとは言えません。

我々は神に手を合わせます。ところが我々は神以外のすべてのものにも手を合わす必要があります。そういうすべてに手を合わすという高貴な性質を我々の魂は持っています。今の時代のように人々が知的・計算的になってきますと、神に手を合わすことを忘れることがあります。 人間は知的になって、神に手を合わさないことを知識人だと思う過ちを犯すこともあります。また神に手を合わせても、それがお陰信仰になってしまっては、自己が仕立て上げられたことになりません。

我々は神やすべてのものを拝む必要はあります。しかしそれが知的なものになっては失敗します。知的に研究していると賢くなったように思うのですが、 それは芸術作品化されていないのです。仏陀がどう言ったとか、どんな悟りを開いたとか、或いは、大我と小我を合一させることに、瞑想に、精神統一に励むのは結構ですが、しかし宗教とは芸術であるということを知らねばなりません。

芸術化されて初めて人間が仕立て上げられるのです。宗教ばかりではありません。科学も芸術なのです。政治も芸術なのです。何のための政治、何のための科学、何のための宗教なのでしょう。自然は人間よりそういうことをよく知っています。自然の力の中に詩と神話という偉大なものがあることを再認識してください。

ポエム(詩)というのは我々の命です。政治や経済や絵画にも、その中にポエムが入ってこないといけません。何故ならポエムは自分たちの命だからです。詩は芸術の親玉です。ワーズワースという有名な詩人は「子供は自分たちの師匠である」と言いました。大人は大きくなるにしたがって詩を失ってしまいます。 子供の心の中、魂の中には詩がいっぱいあります。彼らのいう言葉の中から、すばらしい詩が飛び出します。現在の我々の求めているのは、そういう詩でなくて、お金ばかりに心が走っています。そのようにして自分たちは詩を忘れていきます。子供は詩の中で遊んでいます。何をしても詩の中で、詩の海の中を泳いでいます。 大人はお金と物の中を泳いでいます。これでは芸術作品が出来上がってきません。だから荒々しい世界を作ってしまうのです。

今ここを通った14才のジムは、小さい時はやんちゃな子でした。あまりやんちゃをするから、私が時々手を上げて怒りました。手を上げて怒ると、子供は不思議そうに私の眼とその振り上げたこぶしをじっと眺めました。子供にとっては何故怒られるのか分からなかったのです。子供は信じきって生きています。 信じきって空気を吸っています。子供は信じきってやんちゃをしています。自然と自分の生活が信じるということの中で泳いでいます。その詩的な静かな世界にカミナリが落ちそうになります。それは大人の怒りです。大人の振り上げるこぶしです。子供は信じきった眼で不思議そうに大人を見ます。 何故叱られるのか?絶対怒られるはずはないのに?…と。その信じきった眼と心を見た時、私は恥ずかしくなりました。もう二度と子供を叱るまいと誓いました。

この庭にも鹿が時々やってきて、花や木の新芽を食べます。鹿の眼はとても綺麗です。その鹿を大人は石を持って追っかけます。10メートル近くまでいっても鹿は逃げません。もっと近づいても逃げません。鹿の眼を見ていると、どうして人間は自分たちを追っかけるのかなぁ?という眼をしています。 その時の鹿の信じきった眼とか、子供の大人を信じきった眼を見ると、魂の底から恥ずかしくなります。これは自然の中で、詩そのものの中で生きている者と、詩から離れて、良し悪しその他知的計算の中で生きている者との違いです。




■■ 創造 ■■

踊れ 踊れ
すべてのものが 踊っているではないか
ピュアーの踊りを

踊っていないのは お前さんだけだ
しかめ面をしていないで
もっとソフトになって 踊れ

むつかしい事を 考えるな
踊れ 踊りこそ創造だ
創造は踊りだ

ピュアーの踊り
自我をなくして
ピュアーになって 踊るのだ

むつかしい事を考えていると
ピュアーになれない
ピュアーの中から ピュアーとして
すべてが 踊り 創り出されてくるのだ

長い間瞑想をする必要はない
踊りながらも瞑想は出来る
瞑想は坐っている時だけでない
働いている時も
休んでいる時も 瞑想だ
大脳を休めなければならない

五体を気楽にたもて
意識を気楽にたもて
すべてがくつろぎ 踊っているのに
君だけそう堅ばらずに――

さあ踊ろう
すべてが踊っているのが見えないか
踊っていれば
それが分って来る
自我は人間を緊張させる

クリシュナを見よ ラーダを見よ
インドの神話を見よ
すべてが踊りだ
すべてが歌だ

歌と踊りを忘れると
人間は戦争をはじめる
エゴとエゴのぶつかり合いだ

この世から戦争をなくそう
しかめ面をなくそう
歌と踊りが人類を救ってくれる

ピュアーの踊り どんな踊りでもよい
手を高く上にあげて踊るのだ
踊れ
そこからエゴが崩れてくる
世界の緊張がほぐれてくる
すべて天地万有が踊っているのが分らないか

霊感的詩情をやしなえ
見よ 大きく心の眼を開くのだ
太陽は踊りながら 天空をかけめぐっているではないか
月も星もすべて踊っている
君にそれをささやいているのがわからないか

踊れ 歌え 君の本当の目的が達せられる
人生の目的が達せられる
世界の目的が達せられる
苦しい考えはよせ
君一人がそんな顔をしている
もっと愉快に手を取り合って踊れ

天は君の味方だ 地は君の味方だ
おれも君の味方だ
踊ろう 静かに そして激しくそして又静かに

歌おう
野山の小鳥も歌っているではないか
花は咲いた 君の為に咲いた
太陽が君の為に輝いているのが
わかってくるだろう

踊ろう みんなで踊ろう
エゴがこの世から消えるまで
迷いがこの世から消えるまで
歌い 踊りつづけよう
ラーマクリシュナは踊りつづけた人であった
チャイタニヤもそうだった
ピュアーなハートで「踊り」の中に
創造の中に万物の中に降りたった
つまり 白鳥のようなものだ

湖が君を待っている
さあ手をお出し 私と一緒に踊ろう
君の手は軽く しなやかだ
そう 君もピュアーの踊りを踊れるよ

君はピュアーだ
エゴ(自我)をなくそう
個人所有をなくそう
すべてがみんなの物だ

放とう 持つことをやめよう
持っているものを放とう

創造は「放つ」ことの中から来る
エゴを放って身軽になろう
さあ鐘がなった
天地万有の踊る時だ

1975.7.2