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No.151 400の詩の解説

「ハエの羽音」

夜二時頃
誰か 祈っている声がする
耳をすませた

ハエがとんでいるのだ
羽音が 祈りに聞えて
くるのだ

ハエでも 拝んでいるのだ
ハエが神を 拝むのに
人間が もっとしっかりしないと
ハエに負けるじゃないか

ハエでも 神に祈る事を
知っているのだ!

1960.01.20.

この当時は法華経をしっかり唱えていたので、夜中にハエが部屋内で飛びまわっている羽音が「南無妙法連華経」と繰り返しているのに聞こえたり、又は飛行機の爆音が「南無妙法蓮華経」と響いてくるのを聞いたりしました。 これはハエや飛行機が「南無妙法蓮華経」と響かせているのか、或いは自分の祈りの意識波動がそのような結果となって現れてきたのかどうか分からないけれど、そんなことがしばしば起きた。 これは祈りで真理をつかみ、人類の救われる道を何とか見つけ出そうと、一生懸命に神に祈っていた時の詩です。


「掃除」

毎日 そうじが
十分できる者は
神の声を 聞くことが
できる

掃除を おこたって
名をあげる事をのみ
考えていては
心は 高慢の住み家と
なってしまう

高慢は 宇宙の空気を
けがす
原爆のようなものである

1961.03.29.

男の弟子の一人に、名をあげる事のみを考えている者がいた。そういう人は掃除を余りしない。仲間のものが掃除をしているのに、ほうき一つ持とうとしない。そんな時「高慢は宇宙の空気をけがす原爆のようなものである」という神示があった。 私はかつて、竜王会の三浦関造先生のヨーガの教えを受けていた事がある。その時、師はとてもいい事を言ってくれた。「高慢になってはいかん 高慢な者がいないかと、悪魔が望遠鏡をもってさがしている そんなものにひっつかまったら大変だ」と。 この一言を聞いていたので、私は神通力が出ても、高慢にならないように、ならないようにと、自己を引きしめて、今日までやって来れたのである。 けれども、私の弟子の何人かが、そのいましめを守ることが出来ず、精神世界から転落してしまった者がいる。とくに宗教というのは神通力がつきものだから、高慢が一番おそろしい。気狂いになるおそれもある。


「祈り」

三月二十四日から 水行
私はヒザボンと腰が
痛くなってくる
年のせいだ 苦行は
若い内に しておくものだ

松井さんが 二三日前から
霊感で 何か教えてもらって
いるらしい
今日も 松井さんが
ラーマクリシュナから
「そんな瞑想では 神を
見ることが出来ません
あなたは長生きして
大いに善をしてください」
といって
瞑想の法を 教わった
そうだ

私も今日は
「いたらぬ 私が
神様のお仕事をさせて
もらうことは
もったいない
おそれ多い
有り難いことだ」
と心の中から 浮んで来た

そうだ これでなければ
土地や建物が 出来ても
だめだ
また そうでないと土地も
出来ないし
その他のことも 出来ない

心の準備をさせてもっらった

1962.04.01.

私は24才の時に、姫金神教という小さい宗教法人の一員となり、副長官をつとめる事となった。その当時から毎朝10年間程水行をしていた。冬の水行はふるい上がる。それでも20代はまだよかったが、 38才になった頃から、朝、冷たい水を頭からかぶってお祈りをしていると、ひざぼんや腰が痛むようになってきた。この水行は私ばかりでなく、松井たちもしていたように思う。もうずい分昔のことで忘れてしまったけれど…。


「くちなし」

くちなしの神性に
我れ 今朝礼拝す
神の心が「精」が 我れに
今朝 あらわれたり
( 我れを知る者こそ
  自己を知る )と
マーヤは破れ行く
一つ一つ 我れより

1963.6.29.

これは、池のふちに咲いていた「くちなし」の枝をおって来て、学園にもち帰り、花びんに生けて机の上にかざった。そして、そのくちなしの本性を拝んだ。するとその精があらわれて「我を知る者こそ自己を知る」と言った。 …ということは、どんな物でも、その本性というものがあって、それは神のようなものである…それを感じとって、それを拝むことの出来る者は、自己の本性を知ることが出来るといった意味である。
だから人は、どんな物でも、その本性は神聖だと思って、拝むこと…その拝むパーセントが多くなればなる程、自己を知り、自己の本性そのものになっていくという事である。


「この峰は人類には遥かに遠い」

山は高い
空よりはるかに高い
限りをしらぬ
知恵は山のようなものだ
空はしからば何か
知恵の山を眼下に
雲を作り
雨を降らせ
太陽をてらす

原子の力
エネルギー
生命エネルギーの世界だ!
そこに人類がきづいた時
それを我がものとした時
「知」とエネルギーによって
創造の力をうる
画面の人物
画面の生物に
霊魂を与え生きたものたらしめる
ことが出来る
その秘密は人間の背骨の中に
あるのだ

1963.9.17.

これは何回も書物に書いたことであるが、ハイデッガーの存在生命論を学んでいたので、どんな物…どんな存在事物でも、 その物が存在しているということ自体が生きてあることである…ということを知った。そこで、絵にかいてある虫と、生きて動いている虫と同じである…ということを知った。 即ち一方は絵の虫で、一方は生きた虫である。その違いはただそれだけで「有る」ということ、「存在している」ということについては、生きてあろうとなかろうと、そんなことは問題ではない。 それは生物生命に関しての事であり「存在生命」とは違う。存在生命というのと、生物生命というのとは全然ちがうのである。 存在生命とは物があるということ、存在しているということ…そこに存在しているという生命があるという事であって、生物生命のある無しには関係はない。そんなことで、絵の虫と、生きて動いている虫と、 その二つがあったとしても、その二つに共通している生命がある。それは存在しているという生命である。それを「存在生命」といって、その価値は同じである。 そこで私は、扇にかいてあった虫に、この虫と、生きて有る虫との二つを考え、この絵の虫は生きてある…と心の中でとらえたのである。そして、その絵の虫の存在生命をしかとつかんだのである。 そしてその時(このように、絵の虫にでも、存在生命という偉大な生命があるのだ。これは生きて有るのだと認めたのである。認めることが出来たら、この絵の虫は生きて出てくるであろう……)と確信をもったのである。 …すると、不思議なことに、その絵の虫と同じ虫が、生きた本物の虫が現れて来たのである。こういうところに創造の力というものが顕れてくるのだろうか…?現に思った通り、虫が出てきたのである。 そういう体験が何回もあったのである。これはその頃の詩である。