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No.147 神話の入口

今は一年中で一番気候がよい時期です。アイリスが咲いたり、バラが咲いたり、山々が目も覚めるような新緑に飾られています。これが冬に葉が散った木々であるとは思えないような、夢のようなひとときです。

今日は芝生の種をまいて表で働いていたのですが、暑くて汗が一杯になりました。そんなとき子供が水を持ってきてくれますとうれしいですね。子供から水をもらったり、小さな贈り物、野バラであっても、小さな折り紙であっても、大人が子供から物をもらうと物凄くうれしいです。

何故うれしいのかと言いますと、大人は子供になりたいという何かがあるのです。もっと言うと、子供を見ていてうらやましいなというものがあるのです。それは大人が失ったものがあるからです。大人になってから、勉強をしないといけないとか、お金儲けをしないといけないとか、 妻子を養わないといけないとか、しんどいことばかりしているうちに失ったものが一杯あるのです。そして、そういう失ったものを取り戻したいというものがあるのです。

子供は純情で、いくら親に叱られてもただワーッと泣くだけで、後はケロッとしています。大人になったら、何か一言いらないことを言われると感情的になって、いつまでも覚えていたりして、それで苦しんでいます。子供は叱られてもすぐ忘れて、次々と自分の行動に移していき前へ前へと行っていますね。 そういう子供になりたいと思い、それをうらやましがっている状態というのがあるのです。

今日はお祭りがあるので、ご神前にあがったら、きれいな花が活けてありました。それで一人つぶやいたのです。人間もあんなに美しかったらいいのになぁと言ってね。花ってとても美しいですし、それに花は何も言わないからいいですね。人間はいらないことばかり言うからよくないですね。 人間もものを言うことを少し減らしたら、あの花のように一寸でもよくなるかもしれません。ものを言うことを減らして、雰囲気で生きるような人間になるといいですね。

今日は花について話をし始めているのですが、やはりそこに詩というか、神話というか、そのような静かなものがありますね。人間も口数を減らしていったら、花のような静かな人間になれると思います。口数が多くなったり、荒い動作をすると、人間は詩の世界や神話の世界からずり落ちてしまいます。 だから一度、あまり言葉を言わないというような決め手をこしらえるといいのです。それは大事なことです。そういう決め手を持った方が良いと思います。

「木が一本立っている そこに詩がある」というのはいい言葉ですね。花がきれいに活けられている、そこに詩がある。しかし人間がガチャガチャ言っていると、そこに詩があるとは思えないですね。また鉄砲でバンバン撃ちあっている、そこに詩があるとは全然思えません。それはもう人生の最大の欠陥です。 そこには詩がない。人間の生活の中にポエム(詩)というものを持たないといけないですね。

その詩を持とうと思ったら、まず口を閉ざさないといけません。もの言うことを減らしていくということ、これが一番大切なポイントです。桶に穴があいいていて、水が漏れているようなものです。ザーッと水が漏れていたら桶の値打ちがないですね。だから桶の水漏れを塞がないといけないのです。

木が一本そこに立っている。花がそこに活けられている。花が一つ咲いている。そこに詩があるというふうに、詩というものが自分にやってこないと人は助からないのです。自分の本性である詩、ポエムというものになろうとしないといけません。だからものを言うことを減らすということが必要です。すると詩的な人間、詩というものが生まれますね。

もう一つは不動というものがあります。木が一本立っていて動いていない。花が一輪咲いていて動いていない。不動ですね。昔の日本の芸術に能というものがあります。能というものは動きが少ないですね。動きを活発にしないのです。ああいうものは凄く深い芸術だと思います。

踊りであっても、バレエであっても、俳優でも、ただワーワー言ったり、動作を活発にやっているのと違って、不動なものを持たないとよい演技というものは出来ないのです。漫才というようなものをしていても、その奥に不動なものがビシッとあって漫才をやらないと本当にいい漫才にならないですね。 浮かれてしまって、自分が漫才みたいになってしまって漫才をしていたのでは味のある漫才は出来ないのです。奥に不動なものがないと本当の演技というものはやれないと思います。

今から10年程前に大阪で新国劇を見たことがあります。その時おばあさん役の有名な役者が舞台でこう言っていました。「今の役者はあかんね。我々が芸を覚える時はタバコを吸うキセルで殴られて覚えたものです。今の役者は一日に小屋を二つも持って、かけもちで、もう時間や、あっちの小屋に行かないといけないと言って、 今やっている演技もそこそこに、終わったら自動車でビャーッと次の小屋へ行くのです。」と…。その通りです。演技というものはお金に引っ掛かたらだめですね。

それと医者も同じです。お金に引っ掛かったらだめです。医者は医者のお仕事、人の病気を治すことに一生懸命にならないといけませんね。また宗教家というものも、どうして会費を沢山取ろうとか、信者や会員をどうして増やそうとか、そんなことに毎日頭を痛めているような宗教家はろくな宗教家ではないですね。

日本のお寺に行ったら仁王さんが立っています。不動明王というものもあります。ああいうものはよく考えたものです。動かないものに何かいいものがあるのでしょう。詩があるのでしょうね。不動明王は何も言わないけれど、けったいな様相でグッとにらんでいるなぁと思って、いつまでも見ていられますね。

詩というものについてもう一度言います。お金に引っ掛かったらいけない。不動でなかったらいけない。ものを言ったらいけない。これがポエムに近づいていく道です。自分達の中にポエムが出来てくると、即ち不動なもの、いらないことを考えない、いらないことを言わないというようなことが出来てくると、段々詩的になって、神話の中に入る要素が出来てくるわけです。 ガチャガチャした人間が神話的になろうと思ってもなれません。ガチャガチャして、お金儲けのことを考えたり、しゃべりまくったり、走り回ったりしているような、荒いバイブレーションでは神話にはなれないのです。

今の話は神話になる為の、神話が実現される為の入り口の話をしたわけです。これは大切な話です。この詩が実現されてこないと、神話というものは実現されてこないのです。神話と詩というものの共通点は細かい波動というか、細かい角度というか、透明な角度、透明な波動、こういうもので出来上がっているということです。

そううものが身に付いてくると透明な人間になってきます。人間は透明な人間になってこないといけません。透き通るような人間にばらないといけません。そうすると神話的な人間になれるのです。

神話というものはどういうものかというと、透明な角度の世界を旅することが神話です。神話の中にはお金儲けなんてないし、欲がない。策略がない。神話とは透明な角度の世界を旅するもの。詩というものは不動ですね。神話というものは不動を持ちながら旅すること、そこが詩と神話の違いです。

星がたくさんあります。太陽もあり、月もあり、沢山の星雲があります。それも透明な角度を旅しているのです。これは皆神話です。透明な角度の道を歩いているのです。星も月も太陽も皆黙って透明な角度の道を歩いている。それが神話です。神話というのは停まっていない。神話というものの中には未来というものがあります。未来という時間制の中を旅するのですね。

神話の中には未来というものがあるのです。未来を見すえたもの、未来の中を旅しないと神話にならないのです。未来というものを見すえていないといけない。宗教家も未来というものを見すえないといけないし、芸術家も未来というものを見すえて、未来の世界へ、透明な角度をもって動いていかないといけないのです。

そこでは人間との関係がなくなる。今いる人達との関係がなくなってくる。今いる人達の中で神話的な演技をしようと思ったら、神話でなくなります。作為がありますからね。作為があってはいけない。作為というものを取ってしまわないといけないのです。そして未来を見すえることです。

人の目を見ると、この人は未来というものを見すえているか、今の目の前のものばかりで生きているのか分かります。現状とか、対人関係とか、そういうものに気を配り、目をキョロキョロさせているようでは駄目です。未来を見すえていないといけない。未来を見すえていると、今の人間とか、今の位置とか、そういうものに関係がなくなります。目がグッと未来をにらんでいないといけないのです。 目というか、意識が未来へ向いていないといけないわけです。

未来を見すえて、いつも意識が未来に、目が未来にシューっといって、無口で、詩的な人。それで未来の透明な角度を旅している人でないといけません。




■■ 根源的なもの ■■

消えたもの
消えたものが
詩である
神話である
A点に その入口がある
根源に 消えた世界があり
時間の有の世界に 出てくる
やさしさ むすばれ
ひろがりの三つの法則が
生れてくる
詩や神話は 消えたものである

消えたブラフマンの世界は
根源的詩 根源的な神話の
世界である
ピュアーな世界である

根源的詩が「詩」となると
やさしい複合線の重なり
となる
神話もそうだ

「根源的神話」と
「神話」と
「神話的物語」とがある
人間は根源的詩や
根源的神話に
かえらねばならない
そして「詩」になり
詩的物語と ならねば
ならない

芸術にも やはり
「根源的芸術」と
「芸術」と
「芸術作品」の三段階がある
芸術作品も 根源的芸術
「消えた世界」に
とびこまねば
つくれない

光速の意識でもって
その消えた根源の世界へ
行くのだ

根源的な芸術
そしてあらわれとしての
「芸術」
それから 展開としての
芸術作品となるのだ
人間は一つの 芸術であり
芸術作品である


1978.12.4