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No.130 1989年元旦講和@/相対をやっつける

私は若い当時から、人間はどうしたら救われるかという事を一生懸命に考えてきました。哲学的にまたは宗教的に、何かいいアイデアがないであろうかと思って、人間の救われるアイデアを考えたんです。 ところが何も浮かんでこなかった。考えたものは皆失敗に終わりました。考えて考えて、こうしたらいいだろう、例えば愛情を深めるとか、あるいは人に親切にするとか、なんとかかんとか言って哲学的に考えても、 それが皆もう空論に終わるんですね。そしてどうしたら人間が救われるのであろうか、何をこの人間の頭の上にポカーンと落とせばいいのであろうかと思って長年考えましたが、その解答が見つかりませんでした。

ところが、インドの一番古い文献『リグ・ヴェーダ』というものを読んで、これだ!…と見つかったんです。 人間の苦を救う方法がその『リグ・ヴェーダ』からわかったわけです。それはこのリグ・ヴェーダ当時の人々のような、きれいなきれいなきれいな澄み切ったような心のバイブレーションをもてばいいという事でした。 お説教とか、そういう善悪の教えと違って、この澄み切ったきれいなバイブレーションを人間がもてたら助かるんだという事がわかったんです。

で、その文献をひもといていくとわかる事は、言語が生まれる以前は人間は宇宙的なバイブレーションに満ち溢れていて、もうバイブレーションの生活をしていたという事です。宇宙に耳を傾けると、宇宙音楽が聞こえてきます。 彼らはそういう音楽を聞いていたわけです。そして人と人がバイブレーションでふるえ、バイブレーションで事をしていたんですね。またバイブレーションで人と宇宙が交わっていたんです。

ところが、言語をつくってから人間は相対の世界に落ち込んだんです。落ち込んで、バイブレーションがなくなってしまった。相対というものはバイブレーションをなくさせるものですね。 損とか得とかいう、そんな方向へいかせるものです。だから自分たちは、相対というこの悪魔と戦わなければいけないわけです。悪魔といったらかわいそうですけれども、これを自分がやっつけないといけません。

賢者が初めにサンスクリットという言語をこしらえた時は、やっぱりサンスクリットという言語そのものにバイブレーションがあったんですね。で、それは言語ではあるけれども、音楽的なものだったんです。 バイブレーションに満ち溢れたものだったんです。

私が少年当時はね、まだ言語にいいものがありました。太陽、あぁ太陽は拝まないといけない、有難いってね。水と言えば、あぁ水、有難いな。水がなかったら死んでしまうんだ、水って有難い有難いというね、そんな思いがありました。しかし、今水道の水でシャーッと水を飲んだりしていますと、 水と言ってもね、あれは水だ、お金のいる水だという事で、記号になってしまっていますね。私の子供の時は本当、あぁ有難いものだ、そんな心がまだ言語の中に入っていましたね。だから大昔だったら、もっともっと何か深い深い深い意味を言語はあらわしていたわけですね。

まぁそういうバイブレーションをもっていたのが、相対的な言語が生まれて、損得が生まれてきた。そこから人間が悩み苦しんだんです。だから我々が悩みから救われようと思えば、相対というものをやっつける事と、精神世界というものをやっつける事です。そして元のバイブレーションだけの世界に立ちかえらないといけません。
そういう事で今話している話は、精神世界は大きな害を及ぼしてきた失敗を繰り広げてきた。だから、人類全体がリグ・ヴェーダ当時の人々の心にかえらないといけないという事です。これが人類が救われる一つの大きな方法で、宗教も宗教をしている人々も皆目覚めなければいけません。今までの経典から違う経典を見つけないといけませんね。




■■ 礼拝は反転してくる ■■

反転 反転
反転は最後までゆかないと
やってこない

反転は一番底まで
ゆかないと
やってこない

その底とは
その底とは
人間にとって「ゆだねる」と
いうことである

そのすべての可能性を
放った所からでないと
真実な響きがやって来ない
のである

その真実な響きとは
「礼拝」である

その礼拝とは
すべてを 礼拝できるという
そんな礼拝でなく
礼拝そのものになった
という「礼拝」である

そして それがおきるのは
この底までいった時である
自己をゆだねた時である
それこそ  反転が成立する
時である

「ゆだねる」こと
そこからこそ
本当の本物のものが
やってくる

反転のくるのは
この時である