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No.127 21世紀の人類/行動は角度と記憶から

年をとってきますと、物忘れをいろいろしますね。私も五十歳か五十五歳ぐらいからだと思いますが、物忘れをするようになりました。 あちらの部屋にあるもの、まぁ帽子なら帽子を取って来ようと思って部屋を出る。そして角を曲がったら、何をしに来たのかなぁとさっぱりわからなくなって、もういっぺん元の所へ戻るとちゃんと思い出せる。そういう事が起き始めたんです。 人間はコンピューターであると私はいつも言っていますが、そういう事から、我々人間はコンピューターがグググググーッと角度的に総合調整されて、運動神経他あらゆる神経が動いているという事がわかりますね。 角度が変わると忘れ、元の角度へ戻って来ると思い浮かんでくる。右に曲がって、次は左に曲がって、また次に右に曲がるというふうに、角度の戸棚に全部記憶が入れられているんですね。おもしろいですね。 まぁ紅茶だったら、お砂糖と紅茶のエキスいうんですか、それが一緒になって一つの飲み物になるように、角度と記憶が一緒に組み入れられて全てがなされているんですね。 そして角度が変わると忘れてしまうのは、調整がだんだん緩んできて、角度と記憶がピッタリうまくいかなくなるんですね。

そういうような事で、人間はわからないけれども角度の中で生きているというんですか、角度というのは非常に自分たちの肉体全体の中で重要なポイントを占めているんですね。 例えば街が整然と動き、車が整然と動いているその奥には、交通ルールというんですか、お巡りさんの動きがちゃんとあって、街が平和に動いている。そのように、自分たちの日常生活であれも考えこれも考え、それを行動に起こしてあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていますけれど、 それはもう何という事なしにやっているんですけれど、その元はやはり角度と記憶というものが組み合わされて、シューシューシューシューっと行動がなされているわけですね。 元の部屋へ戻って来ると何を取りに行ったかという事を思い出すという事からじっくり考えてみても、自分たちがシャッと動いているその奥には角度があるのと同じで、宇宙にもやはり角度があって何もかも皆順調に動いているんでしょうね。 月も星も皆角度に従って動いているんでしょう。そういう元にあるもの、奥に厳然としてあって上側のものを順序よく動かしているもの、そういう構図、構造を我々は見つけないと、人間というものがわからないわけです。

私が若い当時、ハサミでなぜ紙が切れるんだろうか、キレが切れるんだろうかという事を考えたことがあるんです。それはハサミの方は鉄で紙より固いから切れるんだとか、あるいはよく研いであるから切れるんだとか、そんな事は誰もが考える事で、解答の内には入らないわけです。 鉄を鋭利にしてあるから紙が切れるというのは当たり前ですね。そういう事を尋ねているのと違うんです。ではなぜ切れるのか。それが角度を変えたら切れるハサミも切れないんですね。まぁナイフであってもいいです。ナイフと言ったら刃物が一つですね。それで何かを切るわけですが、 やはり角度によって切れたり切れなかったりしているんでしょう。だから角度が決め手だとずーっと若い時から考えていたんです。角度というのはすごいものだなぁ。物を切ることができるんだなぁとね、切れるというのはそこにエネルギーがあるといっていいのか、質量があるといっていいのか、 何か力があるんですね、角度は物事をしていくエネルギーを持っている。まぁそれは普通のエネルギーとはちょっと違って、もっと根源的な働きができるようなものですね。そういう事をずーっと以前から考えていたんです。角度というのは面白いですね。

で、その角度、それも透明な角度で自分たちは織られているんですね。整然と織られているんです。だからもっと透明な透明な透明な透明な角度を考えて、それに自分の意識焦点を合わせていったら、透明なスキッとした人間になります。ガラス張りの人間といったらいいのか、透明な人間といったらいいのか。 余計なことを考えない。余計な事を言わないね。ラーマクリシュナは神の前に立つ前にちゃんと消えていた。そこではもう言葉も消えていた。言葉もいらなかったというんですね。 ものを喋るのは消えていないから喋るのかもわかりませんね。余計なことを喋るから本当のバイブレーションが出ないのかもわかりません。しかし今、我々は言葉ばかりの人間になってしまっています。だから神の前に立つという事を置いておいても、人間の前に立つ時に自分が消えていないといけません、 人間の前に立った時に消えていたら、もう言葉というものはなくなるんでしょうね。まぁ皆日常生活の中でいろいろな事をお互いに言ったり、話し合ったり、何か決めようとかありますから、言葉も使わないといけませんけれども、しかしそういう事ばかりと違って、ある時には言葉を使わないような、 言葉がいらないような、消えた人間であるという時間を、一日の十分の一でも二十分の一でもちょっとした瞬間でもいいからこしらえてみたいですね。消えたら気持ちがいいですね。

もしも我々が発展とか向上とかいうものを目指していくのだったら、やはり自分が透明な人間、消えた人間になって、人間が静かに向かい合い、静かにお祈りしたりしてね、透明な時間、消えた時間を長く持つ事です。それが人類の一番の目標だと思います。




■■ はじめからのくっつき(相対カルマとの斗い) ■■

雷の親と子は ドドドンと ただ平凡に
うちつづけているのではない
ドドドン ドドドンと夢中になって うちつづけているのである
静かな打ち方ではない 何もかもをさく火柱を
中空につっ立ててひきさく 天と地をむすび やききる時である
天と地とのはなれ 結びつける 親と子の力である
ほほえみどころか あのにがにがしいまで 四角で
角をはやしたぶさいくな顔で 人目もかまわず
うちつづけているのである
はじめのくっつきを いつまでもそうさせずにはおかないのである
消えるものは 一点の中心軸をもっている
相対は 絶対は その中心軸を軸として かけっこをしている
遊びが 時にはいたずらとなって
相対を泣かしてしまうことがある
相対が ピュアーの兄ちゃんになかされて 泣きべそをかく時
―――弟が自分勝手にはしゃぐ時 雷の親子が出てきて
その中をとりもつのである ドドドンドドドンと それは忙しい
常に相対は泣きべそをかきながら 中心軸を見失うので
それをさがしまわるのである