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No.106 ハイデッガー哲学と私の歩み/存在生命との語らいから光速にとび乗る

ずっと昔、私がカナリヤを飼っていたことがあります。そのカナリヤがある夜のこと夢にあらわれてきてこう言うのです。 「明日、たまごをうむよ」と。そこで私は朝一番に鳥の巣を見に行ったのです。するとたまごが一コ、ポトンと生んであるんですね。小鳥が来て言うんです。 明日たまごを産むからって。そんなのおもしろいですね。
小鳥なんか、まあ生きていますからね、通じやすいし。お花も植物として生きてあるから通じやすいですけどね。湯のみだとか、そんなようなものになってくると、生きたような状態ってあまり感じられないですね。 または絵に画いた虫とかは、「生きてある」とは、なかなか感じられないですね。けれども、そういう生きたとか死んだとかいう「生物生命」、そんなことを通りこして、 「存在生命」というものの中でグウーッと自分の意識を動かし始めたら、そういうおもしろい世界がみえてくるわけです。 そういう神経で、そういうような物の見方で、そういうふうな如実に生きた線を自分はもちながら、物理の世界へ入っていけるわけです

時間の世界とか、空間の世界とかに入っていくと、本当に生きて、ビンビンね、時間なら時間がビビビーッと動いて生きているような時間がもしあったとしたら、それに触れられるわけです。 もし空間があって、その空間がビリビリーッと生きてあったとしたら、そういうものに触れられるわけです。物理学の世界でも、存在生命に触れる神経がないとね、ただ電子がそこにある、というような感覚的な世界と違ってもっと奥の、 生きてある物理学の世界に入れないわけです。如実に生きてある。生きてあったら、あっちからまた教えてくれるわけです。
そういう点、ニュートンにしても、アインシュタインにしても、やっぱり。その世界と語らいをしていたことがよくわかります。 語らいをしていなかったら、自然というものは秘密を明かさないですね。自然というものは人に自分の内奥を開けないですね。開けてもいいような人に開けます。 アインシュタインというのはそういうやわらかい語らいをもって自然の中に入っていったんでしょうね。 話が語らいというところにいきましたね。

語らいかけはそのものと語らうんですから、あっちもこっちに何か言ってくれます。この湯のみに「元気か」なんて言っても何の反応もありません。ないけれども何かやっぱり言っているんです。 「元気、元気」と言っているのかもわかりませんし「お前も元気か」と言っているかもわかりません。しかし、聞こえてはきませんね。 聞こえてはきませんが、元気かと言ったら、元気だと言っているような気がしてくるんです。これは自分で創っているのかもわかりません。創っていてもかまわないのです。 糸車の糸をこう引っぱっているようにね、そのうち本物があらわれてくるわけです。

波動の世界というのはね、にかよった波動を自分でこしらえていくと、そんなものが聞こえてくるのです。全く疑っていたり、また違う状態でいたらだめですね。 そんな意味で、湯のみと話をして「おい、元気か」と言ったら「元気だ」という反応を自分でこしらえた方がいいんですね。そういう語らいをすると、糸車の糸を引っぱってたぐっているように、本当の波動、心の波動というんですか、 存在生命がもっている、その生きたものが語らってくれるわけです。
仏像を生きていると言ったら、その仏像が喜んでこちらに姿をあらわして、ちょっとでも神秘の扉を開いてくれたように、同調するような波動を自分で作っていくと、だんだんそれがあらわれてくるんですね。 まあ、さそい水ですね。ガッチャンガッチャンいう昔のポンプに、スカッスカッと水が上がってこないときには、さそい水というのがいりますね。バケツいっぱいビューッと入れてガチャガチャとすると水がビューッと出てくる。さそい水が必要なんです。

だから「おい、元気か」と言ったら「元気です」と、言っていなくても言っているように自分でこしらえるんですね。 語らいですね。語らってくると、だんだんそれの声が聞こえてくるのです。こんな遊びというか遊戯とか、そんな訓練は必要ですね。こういうことはやらないといけないんです。 聞いて「ああ、おもしろいなぁ、そんなこともありうるだろうな、けれどそんなことをしている暇はない」なんて言っていたら、もう一生入れないですね。聞いただけでなく、やっぱりやらないとね。こんなことをやったら愉快だと思いますね。
いっぺんでもやってみようかということで、いっぺんぐらいやるかもしれませんが、しかし何も聞こえてこなかったら、しまいに止めてしまって、先生の言ったことはウソだ、ということになりますね。 まぁそんなことはいいのですが、気長くやっていると、そのうち湯のみがしゃべったり、テープレコーダーがしゃべったり、電気の傘がしゃべったりすることがいっぺんでもあるかもわかりません。

もう一つ実例を言うと、私がアメリカにいたとき、日本からの郵便物が、今日は誰それの郵便物が入っているというのがいっぺんにわかるんです。というのは、その人の声が聞こえてくるんです。郵便物の中に、書いたその人の心がちゃんと入っているわけです。 えらいものですね。今日はAさんの声が聞こえたからAさんのが入っているだろうと思うと、百発百中入っている。あるとき、Aさんの声も聞こえてくるし、またBさんの声も聞こえてきた。二人の声が聞こえてくるのでどっちかなぁと思っていたら、二人の手紙が入っていました。 アハハ、そんなのおもしろいですね。これは現実の問題です。だから湯のみが振動を送って何か言っている声も聞こえる可能性があるわけです。まあ言えば、そういう世界へ入れると、大分奥へ入っています。

事実、こういうことがちょっとでも経験されないと、物理学へいくら入ってもだめでしょうね。表面で終わります。あちらが語らいかけてくれないと。こちらも語らいながら、その中へ許しを得て入っていかないと、閉ざされた世界、不思議な世界、人間には見せない世界、すなわち神秘の世界というのがあるわけです。

そこでいっぺんにまた話を飛ばしますけれど、光速の問題に入ります。光速瞑想というのを私が始めていますが、いつもいうおもしろい話があるんです。ある人が私のところにきて、「先生、私沖縄へ行って、三ヵ月星を見ていました。毎晩毎晩見ていましたけど、ピュアーにぶつからなかった。」と言うんです。 ぶつかるはずないです。私のやり方と違うのですから。ただ見ているだけではだめですね。それは目で星の光を見ているだけです。私のは「とらえて」いるんですね。星の光をひっつかまえるのと見ているのとは違うんです。光速でとんでいる星の光を、パッとひっつかまえることができるんですね。 できるし、またそうしなければ効果がないんです。ピシャッとひっつかまえるわけです。ものすごい速さで飛んでいるやつに乗っかれるわけです。それをひっつかまえられるんですね。普通の人はそんなひっつかまえる早業というのはないわけです。ただ見ているだけです。

走っている急行列車を見ているのと、急行列車にパァッと飛び乗るのと違いますね。それだけの相違があるわけです。見ているだけだったら、その急行列の中味がわからないですね。急行列車が走ったというだけでね。私の場合は、それにとび乗るわけです。それは今言ったように、目に見えないものにとび乗る訓練をしているでしょう。 存在生命なんて目に見えないけど、それにピシャッとひっつく、ひっついてそれと語らったりする訓練ができているから、ピシャッとひっつけるんです。だから星を見て、星の光とその距離に乗れるんです。だから光の速さに距離をかけることができるわけです。 それはハイデッガー哲学の存在生命論で訓練したのが役立ったわけです。インドのヴェーダーンタ哲学だけではだめだったんです。

この宇宙というものは、歴史的な時間を経て現れてきているのですから、その根源にたどり着こうと思えば、やはり歴史を時間的にカムバックしていかなければならないのです。 問題は時間にかかっています。そこで私は、星の光の速さと、星のもっているものすごい距離をかけたら、ものすごい速さで時間をカムバックしていけるであろう…そして必ず<始まり>に到達できるであろうと、自分の頭で計算したわけです。 そしたら計算したとおりにカムバックしたんです。二か月くらいのうちに、根源にボカーンとぶつかったわけです。




舞台をつくる者よ
舞台をつくる者たちよ
彼らは役者ではない

役者になってはならない

舞台をつくる者よ
舞台をつくる者たちよ
役者になって その舞台で
おどってはならない

線が 透明な角度が
交さする

人は その角度をもった者
その「精」をもった者である

精は角度であり 線で
あり
透明 そのものである

それを人々の中にみるのが
舞台をつくることである

舞台づくりの人は
それだけしておれば
いい
そこで 自己が 消える

舞台に上がって 役者に
なってしまうと
自己が出てくる
すべての可能性がでてくる

舞台づくりの 大大工 小大工で
あるべきだ
役者になってはならない

消える者
消えた者よ

神話の中に その者は
消えて 立つ

自己が 神話になろうと
するな
なろうとすると 役者に
なってしまう

「精」がそこに 一杯にある
神話ばかりの世界が
そこにあるのを 見よ